あなたへ

拝啓

一筆申し上げます。

あなたには、人を殺したいほど憎んだ経験はありますか。

私にはあります。

その人のことが憎くて憎くて、寝る時も、お風呂を入る時も、ご飯を食べる時でさえ、その人のことが片時も頭から離れられず、四六時中その人のことばかり考えてしまうのです。

側から見たら、その人のことに対して淡い恋心を抱いているようにしているように見えますが、物事の本質は全くの別物だと、お考えください。

相手に対して、自分の目の前から消えていただきたいほど憎むのと、恋焦がれるほど愛してしまうのの本質は実は正反対に見えて同じようなものだと私は思うのです。

それはなぜか。

どちらも相手のことを考え過ぎてしまうという現象を引き起こすからです。

そして、それはその後の人生に多大な影響を及ぼすことになるのです。

相手を「憎む」と「愛する」。

とても滑稽であり、素敵な言葉ではありませんか。

しかし、例えばこうはどうでしょう。

相手のことを考えすぎて憎み、感情の糸口が見つからずに殺人に手を染める。

相手のことを愛しすぎて自分のものにしたくて殺人に手を染める。

考え抜いた思考の終着点は同じことだと思うのです。

もちろん、この理論は、世間一般でいう「歪んだ心の人物」の、心理描写と位置付けられます。

大多数の人間は、こういったことが起こった時には、自分の心に「自制心」という鍵をかけます。

そして、その鍵を二度と開くことなく相手の目の前から消え去ります。

自分の視界から消え去れば、考えることもなくなるからです。

しかし、自分の視界から完全に消しても、相手のことを考えてしまう場合はどうだと思いますか。

一日中、何をしている時も相手のことを、「思い」「憎む」。

想像を絶する辛さだと思います。

それは、とても言葉では表現できない程です。

人間関係の本質は常にそういうことに付きまとうと思うのです。

世の中には、殺人を犯したり、女性に付きまとう行為を犯したりする人間がいますが、「殺人」の本質は、相手に対する熱い熱愛と同じ様なものだと私は思います。

では、自分自身の自己都合で犯す殺人はどうでしょうか。

世の中の殺人を犯す人間の中で、自分の自己愛精神だけで人間を殺してしまう輩がいるというのも事実です。

相手に対して、無の感情しか持たない、憎しみも悲しみもない殺人のことです。

無の殺人を犯す彼らの対象は、彼ら自身だと思います。

そうなのです。

彼らは彼ら自身に、熱い熱愛を抱いているのだと私は思います。

無の殺人を犯す彼らの本質は、そういうところから来ているのだと思います。

そして、無の殺人を犯す彼らは「欲」の感情も麻痺しているのだと私は思います。

側から見たら、「欲」があるから殺人を犯す様に思えますが、私は「欲」が無いのだと思います。

殺人は対象者を愛し、支配したい時に貪欲に発生する人間の本質の裏に見える心理だと思います。

もちろん、世間一般の大多数の人間は心理的に自制が芽生えそれを無意識のうちに心の奥底に仕舞っておきます。

それは、何故か。

大多数の人間は「人生を生きる」という「欲」を持っているからです。

「もっと美味しいものを食べたい」

「もっと出世したい」

「もっと綺麗になりたい」

「もっと勉強したい」

「もっと仲良くなりたい」

とても良い響きですね。

しかし、無の殺人を犯す彼らは、「生きる」という「欲」そのものが無いのだと思います。

自分自身しか見えていないのです。

彼らは、自分を愛しすぎるあまりにその欲望の牙を他人へ向けるのだと思います。

言い換えれば、「外へ向ける欲望」と「内へ向ける欲望」とでも言いますでしょうか。

あら。

ここでおかしな言葉が起きましたね。

それは何でしょうか。

大多数の人間は自分を愛しすぎるという欲を捨て、生きるという欲を持つ。

無の殺人を犯す彼らは、生きるという欲を捨て自分を愛しすぎるという欲を持つ。

どちらも正反対の言葉であり、相反するものであると思われます。

ここで物事の本質の意図が現れます。

私は正反対の意味こそ違えぞ、本質は同じ様なものだと考えております。

言い換えれば、言葉の意味は違うが本質的なものの見方は同じだと思っております。

あなたは、言葉で言えばどの様なものだとお考えでしょうか。

そうですね。

私は、例えばこの様な言葉が浮かんできます。

「光と闇」

「白と黒」

「正と悪」

など、日本には数えきれないほどの対義語が存在しています。

私がおっしゃりたいのは、誰でもどちらの可能性を秘めているという事実があるということです。

人間は生まれてから死ぬまで様々な経験と知識を積んで行きます。

それが、人間が「生きる」という本能から来ているのだと考えております。

しかし、世の中には「生きる」いうことを否定・・・・とでも言いますでしょうか。

いいえ、違いますね。

「拒否」している人間もいるということです。そのような人間は常に自分の精神世界に没頭しているのだと感じております。

自分の中で、思い通りに描いた世界を生きているのだと思います。

しかし、それはある意味、とても危険でもあり、多大なる可能性も秘めているということも事実だと感じております。

残虐者は成功者であり、成功者は残虐者であるということでしょうか。

物事の心理描写的に、私は常にそう感じております。

では、どう行ったら、その様な人間は無くならないのでしょうか。

ここでいう残虐者のことですね。

それは、やはり周りが気づいてやるべきでは無いでしょうか。

もちろん、本人の意思も大事ですが、彼らは自分の世界に入っているので、そこからなかなか抜け出せません。

周りの人間が、常に彼らを見張り続けなければ、彼らは自分を生かしきれないと思うのです。

「周り」。

いわゆる、「環境」とでも言いますでしょうか。

そして、彼らに気づかせることも大事です。

「周り」の人間は常に彼らを「見ている」「気にかけている」と。

彼らにとって、無関心ほど恐ろしいものはありませんから。

彼らは、常に誰かに関心を持ってもらいたいのです。

世に出る、意味もない理由で人間を残虐する人間の心理はそういうところから来ているのだと私は思います。

私は誰しも、人を殺したいほど憎んだ経験は、あるのではないかと思います。

しかし、皆、口や行動に出さないだけで終わります。

心の中にしまっておくのです。

そして、それを別の形で発散するのです。

自分の没頭できる趣味。

美味しいものを食べる。

買い物。

そして、それが世の中の大半の人間の為せる技です。

世の中には、そういう器用なことが出来ず、苦しみながら生きている不器用で哀れな人間もいるのも事実です。

しかし、その様な人間の可能性は無限大だと私は信じております。

季節は冬から春に切り替わりますがどうかお身体を大事になさってください。

どうか、あなたが幸せな人生を送れますよう私は心から願っております。

敬具

三月 十六日